昭和26年7月15日の映画案内

 昭和26年7月15日の新聞に掲載された映画案内。

 このままでは見にくいので左右分割してみよう。

 ますは右側から。

 洋画と邦画に分けられている。横浜日活では「アパッチ族の最後」をやっていた。
 この映画館はどこにあったのか。横浜市が発行している『調査季報』から地図を引用してみた。画像をクリックすると拡大できるよ。

 ⑰の位置にあったことが分かる。

 これはWikipediaから。当時の写真だ。
 横浜日活のあった場所には、もともと喜楽座(大正13年開館)があった。昭和10年に日活が喜楽座を買収し、新たに鉄筋コンクリート造の映画館として横浜日活を建てた。戦時中は横浜大空襲により一部が焼失したが、戦後の昭和21年、横浜日活館が洋画上映館として新装開館した。

 「横浜国際(劇場)」では「ジャングルブック」を上映していた。わざわざ「総天然色」と書き込まれている。モノクロ映画からカラーに変わっていく時代。
 この劇場はどこにあったかというと、現在のJRA馬券売り場(野毛)だ。⑤の場所。

  昭和23年(1948)3月、子どもの頃の美空ひばりがここに出演している。写真は『横浜中区史』より(1985年発行528頁)。場外馬券売り場の前にある「松葉寿司」の軒先に美空ひばりの銅像が建っているのは、元の横浜国際劇場を眺めている姿を表現している。

 国際劇場の左隣にはマクァーサー劇場もあった。

 この写真では「風と共に去りぬ」の看板が写されているが、昭和26年7月15日の映画案内には「極楽スパイ狩り」が載せられている。(奥村泰宏・常盤とよ子の『横浜再現』より)

 この2館は洋画専門であったが、他にオデヲン、白鳥座、レアルトも洋画専門の映画館だった。

 写真は昭和13年(1938年)のオデヲン座(Wikipediaより)。その略歴は…

 ①1911年12月 オデヲン座
 ②1942年 横浜東亜映画劇場
 ③1942年以降 横浜松竹映画劇場
 ④1945年10月 オクタゴンシアター
 ⑤1955年11月 横浜松竹映画劇場
 ⑥1973年2月 閉館
 ⑦1985年7月 横浜オデヲン座
 ⑧2000年7月7日 閉館

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 映画案内の左半分には邦画専門館が載っている。横浜宝塚(⑩の場所)の正式名称は横浜宝塚劇場といい、かつて横浜の馬車道にあった劇場である。映画上映や、宝塚歌劇団などの公演が行われた。
 テレビの普及などによる観客の減少のため、1969年9月に映画『地獄変』の上映を以って横浜宝塚劇場としての営業を終了。横浜市が劇場を買い取り、1970年1月25日に「横浜市民ホール」として再開した。その後老朽化により、隣接する旧中区役所の敷地と合わせて、横浜市市民文化会館関内ホールに建て替えられた(Wikipediaより)。

 関内ホール裏には「旧中区役所正面玄関の扉」が保存されている。

 横浜グランド劇場は戦後すぐ⑮の位置に建てられ、その後は「横浜大映劇場」として昭和33年1月28日に装い新たに開館したが、映画業界の時代の変化に伴い1999年頃に閉館。現在はパチンコ店として残っている。
 昭和26年の時は横浜宝塚、グランド劇場ともに「海賊船」を上映していた。

 横浜松竹と野毛劇場では、美空ひばりが主演している「角兵衛獅子」をやっていた。

 現在の横浜光音座は、中区宮川町にある成人映画館で、ゲイポルノ映画専門の横浜光音座1と、ピンク映画専門の横浜光音座2からなる。だが、この当時は「からす組異変」という昭和26年7月13日に公開されたばかりの時代劇コメディ映画を上映していた。
 製作は宝プロ(新東宝配給)で、古川ロッパ(古川緑波)、横山エンタツ、市川春代、尾上菊太郎、澤村國太郎、渡辺篤などが出演していた。

 

 次に冒頭に掲げた映画案内の左半分を見てみよう。

 コチラは「各社」扱いだ。伊勢佐木界隈にあった劇場と比べて、少し格落ちするのかな。

 春風座は、かつて横浜市南区に存在した劇場・ストリップ劇場、および元映画館。チャンバラ映画などをやっていた映画館がアダルト作品を上映するようになり、その後ストリップ劇場になった。昭和59年ごろにストリップ劇場の場所は今のマンションが建った。詳しくは「はまれぽ」の調査記事で確認を。

 「新光映画」は横浜中華街にあった。詳しくは当ブログの記事で。

 

  映画案内の傍には、こんな広告も。弘明寺にあった銀星座では、市川栄舛(升)大一座が公演していた。この一座がどんなグループだったのかは、コチラのサイト『大高ヨシヲを探せ!』が詳しいので一読をお勧めする。

 また、この広告枠の右端には、磯子の雨月荘が高級ヨットを売りたいという情報も掲載されている。 

 

 これは横浜セントラルの広告。ネット検索するとミス・池上が出てくる。この辺の情報は、また改めて調査してアップしていきたいと考え中。来週にはできるかなぁ……。

 

今日のおまけ♪

過去記事から

 

桂二重丸

 昔(今から35年くらい前)、ひょんなことからお目にかかった落語家、桂二重丸。この手拭いはその時にいただいたもの。

 桂米丸の弟子だと仰っていたけど、その後どうなったのかな。

 グーグルで検索すると、AI がこんな情報を出してきました。

 

• 1986年(昭和61年)に四代目桂米丸へ入門しました。
• 入門時の前座名は「のー丸」でした。
• 1990年(平成2年)6月に二ツ目へ昇進し、「二重丸」へと改名しました。
• その後、落語界を離れ廃業しています。

 もう落語界にはいないんだ😢

 

10月1日は

  今日は10月1日。中華人民共和国の建国記念日です。例年なら中国から観光客がどっと押し寄せてくるのがこの季節ですが、今年は訪日客が激減するという情報が流れています。

 ということは、横浜中華街は混雑しないのでしょうか。最近はこの街に足を踏み入れていないし、今週も来週も出かける予定がありませんので、中華街の情報をお届けできませんが、過去の記事を振り返って今年の状況を想像してみたいと思います。

 5年前の記事を貼っておきます。

中華街にあった映画劇場

 これは昭和26年(1951)年7月17日の新聞広告。新光映画劇場というのは、中華街大通りにあった。場所は現在の「同發新館」があるところだ。

 この広告の2個右側には春風座の案内が出ている。「腰抜けと原爆娘」はボブ・ホープ主演のアメリカ映画で、「白痴」は昭和26年に公開した黒澤明監督の松竹映画。夜9時からはナイトショーで、「初夜ふたたび」(昭和24年)が上映されていた。主演は佐野周二の松竹映画。

 この当時は春風座と名乗っていたが、前年までは「ニューアサクサ」といった。その後ストリップ劇場に転換している。

 ニューアサクサ→春風座(映画館)→春風座(ストリップ劇場)という順番だ。

 実は、横浜中華街にもストリップ劇場はあったのだ。名称は「クラウン座」といって、新光映画劇場の隣にあったという。

 このクラウン座のことを調べてみたら、グーグルのAIが次のような答えを出してきた。青丸が出典である。これを開いて驚いた。なんと当ブログの記事ではないか。こんないい加減な情報をもとに回答を出すのがAI。

 新光映画劇場とクラウン座の関係がゆがめられています。 クラウン座→新光映画劇場としているけど、並んでいたんだよね。

AI による概要

 AIは間違った答えを出すこともあるから注意が必要だね。

 新光映画劇場については以前、記事にしているのでそちらをリンクしておく。

 

ベトナムの土産

 ベトナムに旅行していた娘たちからお土産をもらいました。右はホイアンのチョコレート。左の二つはインスタントコーヒー。
 

 いちばん左のコーヒーを入れてました。かすかにココナツの香りが。
 コーヒーのお供はチョコ。ビターで美味しいです。
 ここで、中華街のベトナム料理やコーヒー、デザートを思い出しましたので、以下にその時の記事をリンクしておきます。

 

 こうして見てくると、できては消え、消えてはできているんだなぁ、感慨深いものがあります。

 現在営業しているのは「カフェ ジャン」と新しくできたベトナム料理ホァングンの2店舗でしょうか。

カナダ産の三元豚

 カナダ産の三元豚を使った「OKストア」のロースかつ重。税込み366円です💛

 以前は確か200円台だったかと。それでも300円台とは凄いなぁ。

 肉厚で旨し😍✌️

来年は横浜の区制100周年だ

 昭和2年10月1日(土)、横浜市に区制が導入され5つの区が誕生しました。鶴見区、神奈川区、中区、保土ヶ谷、磯子区です。
 ということで、来年は区制100周年を迎えるわけですが、この5つの区役所がどういう準備をしているのかと思い、それぞれのHPを覗いてみました(9月10日現在)。
 冒頭に掲げた画像は鶴見区のトップページです。その他の区はどうか見比べると…

 鶴見区、神奈川区、磯子区はトップページに100周年の情報が出ています。

 一方、中区と保土ヶ谷区は「区制100周年」ではなく通常の新着情報の紹介をしています。トップページがこんな状態ということは、100周年に関して発信する情報がないのでしょうか。

 あと6か月で2027年国際園芸博覧会「GREEN×EXPO 2027」が始まります。3月19日から9月26日までのイベントですが、この期間は「花博」の話題でHPを賑わすのではないかと思っています。

 ところで、区制50周年にはどんな記念事業をやっていたのでしょうか。一過性のイベントではなく、後世に残る「何か」ですが、調べてみると各区とも区の歴史を語る冊子を発行していました。

 「鶴見区史」1982年(昭和57年)発行 770ページ
 「神奈川区誌」1977年(昭和52年)発行 687ページ
 「横浜・中区史」1985年(昭和60年)発行 1,146ページ
 「保土ケ谷ものがたり」1977年(昭和52年)発行 279ページ
 「磯子の史話」1978年(昭和53年)発行 762ページ

 こうして並べてみると発行年がいろいろであることが分かりますね。神奈川区と保土ケ谷区はちょうど50周年に間に合ったようですが、磯子区は翌年に発行していました。鶴見区は50周年の年から5年遅れて昭和57年に発行。とんでもなく遅かったのが「中区史」で、記念日から8年も経った1985年(昭和60年)に完成しています。

 発行した時期と関係のあるのが総ページ数です。「神奈川区誌」と「保土ケ谷ものがたり」は、それぞれ1977年(昭和52年)発行ということで、おそらく50周年式典に間に合ったものと思われます。保土ケ谷区は279ページと薄いので納得ですが、「神奈川区誌」は687ページと厚いのに間に合わせたようですね。ずいぶん前から準備していたのでしょう。

 「磯子の史話」も762ページと厚めなのに50周年の翌年に間に合わせていました。「鶴見区史」は1982年(昭和57年)発行で、5年遅れで完成したようです。
 目立つのは「横浜・中区史」です。記念の年から8年も経った1985年(昭和60年)の発行! 1,146ページの大作ですが、ちょっと遅れ過ぎではないでしょうか。

 これらが今どうなっているのか調べてみました。とりあえず国立国会図書館に保存されているのかどうか。そうすると4区は保存されていることが分かりましたが、神奈川区の分は保存されていないことが判明。出版した時に送付していなかったのでしょうかね。

 次に古本として出回っているのかどうか、そしてお値段は?

 「鶴見区史」は「日本の古本屋」サイトで2,500円。
 「神奈川区誌」は同じサイトで3,200円。
 「横浜・中区史」は同じサイトで2,000円ですが、アマゾンでは、なんと14,074円!
 「保土ケ谷ものがたり」は「日本の古本屋」サイトで500円ですが、メルカリでは35,194円!
 「磯子の史話」はメルカリで4,444円。

 この価格の違いはなんでしょうかね。古本だから保存状態の良し悪しですかね。

 ということで、来年の区制100周年記念事業から昔の50周年記念事業を振り返ってみましたが、各区とも何が企画されているのか楽しみです。

 

  

パルミジャーノ レッジャーノ

 久し振りに見るチーズ。ヨーロッパに行ったママ友のNさんに買って来て頂きましたが、手が震えて写真のピントが合いませんでした。

 自家製のカレーライスにトッピングして。パルミジャーノ レッジャーノを振りかけて食べると、ただでさえ旨いカレーが、数段に旨くなってスプーンが止まりません。

昭和100年

 今年は昭和100年の年ということで、日本の造幣局から昭和100年記念貨幣が発行されました。硬貨でカラーなんて初めてではないでしょうか。
 額面は1,000円で純銀製。重さは31.1gです。販売価格は、なんと34,800円! これが4万個も販売されました。
 9月10日現在、純銀の価格は1gあたり約378円(田中貴金属)ですから、この貨幣は378×31.1=11,756円分の価値になります。これを34,800円で売るのですから、かなりの儲けになるわけです。

 そんなコインですが、私は申し込みを忘れていました。申し込んだとしても、抽選ですから当たらなければ手に入れられないのですが……。

【参考】造幣局のHP

 記念貨幣の発行に先立って、「昭和100年記念式典」が2026年(令和8年)4月29日(昭和の日)に日本政府主催で日本武道館にて挙行されました。この式典の中で海上自衛隊東京音楽隊により昭和を代表する6曲が演奏されましたが、その曲は次のとおりです。

• 上を向いて歩こう(坂本九)          昭和36年
•  赤いスイートピー(松田聖子)  昭和57年
•  なごり雪(イルカ)       昭和49年
•  時代(中島みゆき)       昭和50年
•  Get Wild(TM NETWORK)      昭和62年
• 川の流れのように(美空ひばり)  昭和64年 

 すべて戦後、それも高度成長期以降の曲です。昭和100年の記念式典なのに、戦前、戦中の曲がありません。この中で一番古いのが「上を向いて歩こう」です。
 注目したいのは、この歌が坂本九の歌唱によって初披露された年(昭和36年7月)。なんと、高市早苗さんの生まれた年です。彼女の誕生日は3月7日なので、上記の曲はすべて彼女が生まれてから以降にできた曲ばかり。
 昭和100年記念の式典と言いながら、偏りがあるのではないでしょうか。誰が選曲したのでしょうか。

 ということで、AIに相談して昭和100年を振り返る曲を選んでもらいました。

①『東京行進曲』(佐藤千夜子 昭和4年)日本で最初の本格的な「レコード歌謡(流行歌)」の大ヒット作と言われています。当時のモダンな東京の風俗(カフェー、キネマなど)が軽快に歌われています。

②『丘を越えて』(藤山一郎 昭和6年)昭和の大作曲家・古賀政男が手がけた、マンドリンの音色が爽やかな名曲です。藤山一郎の正確で美しいテノール歌唱が、世界恐慌で沈んでいた日本を明るく励ましました。

③『リンゴの唄』(並木路子・霧島昇 昭和20年)終戦からわずか2か月後に公開された映画主題歌で、戦後ヒット曲の第1号です。並木路子の明るく愛らしい歌声は、焼け跡に生きる人々に復興への希望を与えました。

④『青い山脈』(藤山一郎 / 奈良光枝 昭和24年)民主主義の到来と新しい若者文化の讃歌同名映画の主題歌として大ヒットを記録し、今なお世代を超えて歌い継がれる国民的愛唱歌です。爽やかで希望に満ちたメロディと歌詞は、戦前の暗い空気から脱却し、平和で明るい新時代(民主主義)を歩み始めた若者たちのシンボルとなりました。

⑤『上を向いて歩こう』(坂本九 昭和36年)経済が急成長し、社会が激変する中で生まれた名曲です。『SUKIYAKI』のタイトルで米国ビルボード誌で1位を獲得し、世界的な大ヒットを記録しました。

⑥『川の流れのように』(美空ひばり 昭和64年/平成元年)昭和の歌謡界の女王・美空ひばりの遺作であり、昭和から平成への時代の変わり目を象徴する国民的歌謡曲です。彼女は平成元年7月6日に、女性として初めて国民栄誉賞を受賞しました。

 まともな選曲だと思います。参考までに当日の式典の様子をリンクしておきます。 

式典の様子

 天皇皇后両陛下がご臨席された式典ですが、天皇陛下がおことばを述べる機会はありませんでした。

 これに関連して気になるニュースも流れてきました。

 ≪宮内庁が上皇さまの意向を受け、一般の告別式にあたる皇室の葬儀「葬場殿の儀」を皇居・宮殿で行い、規模を大幅に縮小する方向で検討を進めていることがわかった。同庁関係者が明らかにした。昭和天皇の葬儀は、国の儀式としての「大喪の礼」と同じ東京・新宿御苑が会場だったが、国民生活に影響が及ぶことを極力少なくしたい上皇さまの意向を考慮した≫(読売新聞)

 ≪”天皇軽視式典”でよみがえった苦い記憶 上皇さま 突然の“葬儀規模を縮小”表明に高市政権への強い不信感≫(yahoo news)

 上皇さまがまだ天皇だった頃の話ですが、私の所属する楽団が葉山で合宿をしていたとき、海岸で偶然、天皇皇后両陛下と接する機会がありました。

 その体験をブログ記事に書いていましたので、最後にそれをリンクしておきます。

 

 

 

 


 

星新一 生誕100年

 今日はショートショートの名手、星新一の生誕100年記念日です。若い頃は何冊も買って読んでいたことを思い出します。「ボッコちゃん」、「ようこそ地球さん」、「気まぐれ指数」、「ほら男爵」など懐かしいです。

 最近はロシアとウクライナ、またアメリカとイランの間で戦争が起きていて、自立型のドローンなんていう新しい兵器が出てきました。星新一は未来の戦争のことも書いていますが、戦場で無人中継をする話が印象に残っています。弾丸が飛び交う中に一本の柱があり、その先端にテレビカメラが付いていて生中継をするという話だったと思います。 

 彼は小説のほかにエッセイも多数書いていました。そんな中から生誕100年記念作品集として、未発表の作品を集めた「きまぐれカプセル」が発売されました。まだ購入していませんが、近いうちに買いに行こうと思っています。

 

 参考に過去記事をどうぞ

 

 「きまぐれカプセル」の一部ですが試し読みができます。

 

横浜 10哩 折返

 横浜市南区に残っていた石柱。「横浜 10哩 折返」というプレートが貼られている。これは一体なんなんだろうということで、先日の記事にアップしました。その時はまだ残っているものと思いながら文章を書いたのですが、この写真を送ってくれた知人から話を聞くことができました。

 彼がこの石柱を発見したのは2007年のこと。当然、これは何だ!と疑問を抱き、周辺の町内会役員や古い商店の方々に取材をしたそうです。しかし結果は残念ながら、全員が「わからない」という反応でした。

 結局、調査はここでストップ。それから20年近く経った先日、彼が久々に現地調査に行ってくれました。

 その結果は、「抜かれて無くなっていた!」とのこと。残念です……😢

 以下に、先日の調査で撮影してきた現場写真を貼り付けておきます。

 念のためストリートビューで確認してみました。すると2009年には写っていたことが判明!

 2009年のストリートビュー

 しかし、このあと2014年には写っていませんので、この間に撤去されてしまったと思われます。

 抜いてどこに持っていたのでしょうかね。

 廃棄した?

 どこかで再利用している?

 できれば南区役所の周囲に移設してほしかったです。でも、この石柱の由来が不明なので、「これは何でしょう?」とか「由来をご存じの方はいませんか?」といった情報提供を呼びかけるプレートを設置したらよかったと、今さらながら思ってしまいます。

 この石柱のことはいくら調べても出てこないのですが、再度、「10哩 折返 横浜」をキーワードにAI検索をしてみました。

 そうしたら、こんな答えが返ってきました。

 出典が当ブログの記事になっていました!

 

 さらに、≪地域の歴史を伝える遺構・モニュメントとして一部が移設・保存されています≫という表示が!

 

 AIの回答は不十分ですね。

 AIが今回の記事を学んで、次の回答を出してくれることを願っています。

9月2日は…

 ↑ この画像をクリックして拡大。ゆっくり読むことができます。

 9月1日の東京新聞の記事です。台湾出身の呉正男さん(99)のことが載っています。
 呉さんは戦前、日本統治下の台湾から東京へやって来ました。やがて戦争が始まり旧陸軍に志願、朝鮮半島で終戦を迎えると、そのままソ連軍によって捕虜収容所へ送り込まれ、極寒・飢え・重労働の2年間を過ごすことに。

 そんな呉さんの記憶をたどるドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』が9月5日から横浜シネマリンで公開されます。楽しみですね。

 私は以前、呉さんの講演を聴きに行ったことあがります。そのときの記事を貼り付けておきますので、お時間のある方はどうぞ寄って行ってくださいませ。

 あの戦争によって人生が大きく変わってしまったのは、台湾の人だけではありません。あまり知られていないと思いますが、北方の少数民族も日本の軍人として戦争に駆り出され、戦後はソ連軍によってシベリアの収容所に送り込まれてしまった人もいました。

 そんな人生を翻弄された北方民族の話を聞いたので、10年ほど前に記事にしています。こちらも参考にどうぞ。

 

関東大震災

 『横濱復興誌』に掲載されている地震翌日の写真。横浜市役所脇に焼けただれて放置された市電の車両です。(国立国会図書館デジタルアーカイブ 以下同じ)

 市の公共物損害高調。画像左端に橋梁の被害状況が出ています。横浜市内で97橋も壊れたといいます。(画像をクリックして拡大できます)

 橋梁被害箇所表。ほとんど全焼か大破です。震災前は木造が多かったからね。その後、数年かけて修復や架け替えが行われ、現在に至っています。(画像をクリックして拡大できます)

 その中の一部を貼り付けておきます。

 大岡川に架かる震災復興橋「旭橋」。昭和3年9月竣功。

 こちらは同じく大岡川に架かる道慶橋。 

 昭和2年9月 復興局建造とある。

   

 東神奈川駅近くの境橋。反町、広台太田町、二ッ谷町が接する地点にあるから「境橋」なの。

 昭和3年9月 復興局建造。

 こうして橋を見ていくと、横浜中心部にある橋の多くは、昭和2年~3年にかけて再建されたことが分かりますね。あまり交通量の多くない郊外の橋は、おおむね昭和10年頃までに架け替えが行われているようです。

 こうして、横浜における大災害から復興してきたわけですが、震災当日やしばらくの間には、朝鮮人・中国人、方言を喋っている日本人も殺されるという悲惨な事件も起きました。 

 そんな中でも、彼らを助けていた立派な日本人がいました。そんな方々のことを以前記事にしているので、それらをリンクしておきます。

 堀割川ほとりにあった監獄に収容されていた者と、所長の話です。

 次は鶴見で一部の暴民が朝鮮人を虐殺しようとするのを防いだ警察署長の話だ。

 以上、「防災の日」にあたって、関東大震災の昔を振り返る記事をアップしました。

 今日から「改正道路交通法施行令」が施行され、主に地域住民の日常生活に利用されるような、中央線等がない道路(=生活道路)では、法定速度が60km/hから30km/hに引き下げられます。

草間彌生さん・横浜トリエンナーレ・現代アート

 8月14日に草間彌生さん(97)亡くなったというニュースが流れてきました。写真は「WSJ MAGAZINE」より引用。
 水玉のイメージが強い作家で、いろいろ記憶に残っている方も多いでしょう。彼女は現代アートの巨匠でした。

 横浜トリエンナーレ第1回

 彼女が作っていたミラーボールがヤフオクで売られています。草間彌生 エンドレス ナルシス ショウ ミラーボール 直径約30cm 第一回横浜トリエンナーレ 2001 

 これを見て横浜桜木郵便局の外階段下にある丸い球を思い出しました。

 金属製の球は何でしょう。

 説明板がなかったので、何を意味しているのか不明です。ここが今現在どうなっているのか気になって、グーグルストリートビューで確認すると……

 なんと、こんなことになっていました。

  確認する ←クリック

 フェンスに覆われて見えません。はたして、あの球は存在しているのか? ストリートビューで過去に遡ろうと思っても、2022年6月までしか見ることができなくなっているのです。嗚呼……
 なんだか大阪のアレと似ているようです。もしかして、排除アートだったのではないか、とも思えます。フェンスの中はどうなっているのか、いますぐ飛んで行って確認したいです。

 さて、現代アート・トリエンナーレでさらに思い出すのは、中華街の中でも行われていたことです。どんなものだったのか、過去記事からご覧になってください。

 中華街近くの神奈川県民ギャラリーで開催されていた「凸凹のある回転楕円体」というアマチュアの展覧会に行ったときの記事です。

 最後に、こちらも載せておくね。みなとみらい19街区にあるフルーツ・ツリー

 これは今でも残っているでしょうね。確認すると……

グーグルストリートビュー

 よかった、残されている😍

昭和31年の地図に見る銭湯(最終回)

 横浜市中区本牧間門に隠れたように建っている「間門湯」。昭和12年(1937)に建物が完成して、昭和16年(1941)から継続して営業中だ。建物の骨組みは当時からのもので、昭和20年(1945)の横浜大空襲では災禍を免れたという。(朝日新聞の記事から)
 写真は神奈川銭湯組合のホームページから引用。

 昭和31年の住宅地図に「間門湯」が掲載されている(クリックして拡大)。当時は本牧が接収中で、本牧通りに沿って米軍の「横浜海浜住宅地区」があり、通りを挟んで海側(東側)の一号住宅地が「エリア1」、山側(西側)の二号住宅地が「エリア2」と呼ばれていた。今の新本牧地区である。ここには米軍家族が住んでいたが、本牧間門は軍隊以外のアメリカ人たちの家があった。

 このあたりに表示される画像は広告です。

 上の地図をご覧いただくと、アルファベットで表示された外国人の家や、単に外人としか書かれていない一画があるのが分かる。これらには軍人ではないアメリカ人が住んでいたはず。他にも、日本名の家がある(地図は加工している)けど、所謂オンリーさんの家も混じっていたのかもしれない。

 この「間門湯」の周辺にはアメリカ人が多く住んでいたのだが、彼らはこの銭湯を利用していたのか? 新聞記事によれば「戦後は、アメリカ兵の子どもたちが、隣の建物の屋根から銭湯をのぞきに来たこともあった」と書いてあるが、たぶんエリア1とかエリア2の悪ガキだったのだろう。

 これは横浜市のホームページに掲載されている三千分一地形図。昭和30年代の様子が分かる。赤丸で囲った建物が「間門湯」であるが、煙突マークが描かれていない。
 市電の通りを挟んで向かい側には2本の煙突マークが見える。これは米軍のボイラーハウスだ。
 4年ほど前に亡くなった嶋田昌子さんの実家は間門にあって、毎朝、このボイラーハウスに点火する「ボッ」という音が聞こえてきたと、仰っていたのが印象に残っている。彼女の家には風呂があったと思うので、「間門」に行った経験はないのかな。存命のうちに聞いておけばよかったと、今になって後悔しているしだい。

 昭和31年の地図に見る銭湯シリーズの最終回として「間門湯」を取り上げたが、まだ他にも紹介したい湯がたくさんあるけど、これをもってとりあえず終了とする。

 最後に、今までアップしてきた昔懐かしい銭湯の一部をリンクしておくので、時間のある方は、どうぞ寄って行ってくださいませ💛
 (気が向いたら続編を出すかもしれない)

中将湯(2020.12.30)

山下湯(2021.1.6)

伊勢ノ湯(2021.1.12)

松乃湯(2021.1.15)

常盤湯(2021.1.17)

元町温泉(2021.2.7)

石川湯(2021.2.10)

豆口温泉(2023.1.28)

さくら湯(2023.2.10)